(第三話)負けたくなくて遠回りを選んだ—ちゃんとやるより、“勝てる道”を選びたかった。
会社を辞めたとき、不思議と強い悔しさはありませんでした。悔しさよりも、「やっぱり無理だったか」という、どこか納得したような感覚でした。
また、どこかで分かっていました。
自分は“ちゃんとやれる側の人間ではない”と。そういう前提で、物事を選ぶようになっていたことも。
そこからの数年間は、生活のために働く日々でした。
昼は工事現場。
夜はガードマン。
体はきつかったけれど、それ以上に求められるものが少なかった。
何よりも、話さなくていい。人と深く関わらなくていい。それだけで十分だったのだと思います。
ただ、ずっとそのままではいられませんでした。
生活が少しずつ落ち着き、再び“社会に戻る”という選択肢が現れたとき、私は、もう一度考えることになります。このままでいいのか、と。
同級生たちは、会社で評価され、昇進し、それぞれの場所で実績を積み上げている。それに比べて、自分は――
その差を、はっきりと意識した瞬間でした。焦りがありました。
でもそれ以上に、強かったのは“負けたくない”という気持ちでした。
ここで、本来なら選ぶべき道は分かっていたと思います。
時間はかかっても、地道に経験を積み直すこと。一度崩れた場所から、もう一度やり直すこと。
でも、私はそれを選べませんでした。
なぜなら、その道では“間に合わない”と思ったからです。
同じように積み上げても、もう追いつけない。日本の会社には、上昇志向のない社員に対して、ある程度決まった流れがあるから。
40歳までは何とか会社に残れても、課長以上になる見込みがなければ、子会社への出向候補になる。そこから程なくして転籍となり、50代では関連会社や取引先への転籍。給与も三分の二、場合によっては半分近くまで下がる。
運よく残れても、55歳前後で役職定年。管理職を外され平社員に戻される、当然待遇も落ちる。そして60歳で定年。
年金支給を65歳に設定するなら、働いてきた会社での再雇用が最低限必要となる。でも、私のような未来お荷物社員に再雇用の可能性はないに等しい、そういう結果に確実に至るだろう。
仮に再雇用なく完全退職したとして、就ける仕事は自転車の整理と掃除しかない。そして稼げてもおこづかい程度である。
いくら特別支給の老齢厚生年金が62歳から支給されるとはいっても、これでは65歳の本格年金支給までの5年間の生活が成り立たない。そのような未来では非常に困るのです。
もちろん、想像した未来がそのままやってくるわけではないでしょうし、また、すべての会社がそういう流れではないとは思います。
でも、少なくとも私には、その先に待っている未来が、当時、見えてしまっていたのです。
妻は結婚後は専業主婦を希望していましたので、暮らしを建てるなら、もっと待遇の良い会社への転職が必要でした。
うまく30代で希望の転職に成功しても、事務職のままだと、おそらくは40代で肩たたき。良くても子会社出向。その先も、転籍や待遇低下が待っており、退職後の再雇用もないだろう。
どう考えても、そういう運命が待ち構えているとしか思えませんでした。
ならば、別の方法を選ぶしかない。
そう考えたとき、ひとつの答えに行き着きました。
自分でやるしかない。会社の中で評価を積み上げるのではなく、最初から別の土俵に立つ。うまくいけば、一気に逆転できる。そう考えたのです。
今振り返れば、かなり危うい発想だったと思います。
でも当時は、それが一番“現実的”に見えていました。
とにかく、負けたくなかった。
ただそれだけで、選択の基準が歪んでいたのだと思います。
29歳で結婚も決まり、これから生活を支えていかなければならない。
本来なら、安定した道を選ぶべき状況でした。それでも私は、“勝てる可能性”を優先しました。
安全よりも逆転。
その選択が、後にどうなるのかも知らずに。
ただ――
このときの私はまだ、気づいていませんでした。
その「逆転を狙う選択」が、まったく別の形で、自分を追い詰めることになるとは――そして、それが簡単には抜け出せない流れの中にあったことにも。
(→第4話)



